気ちがい・気違いという言葉がなぜ現代で禁止用語になっているかは、「クロアチア語、ボスニア語、セルビア語の間の深い溝」の日記にも書いたとおり、ごもっともな理由がありますので、私がどうこう言えるものではありませんけれど・・・。
あと、文庫の表紙をよく見たら、どうやらコンピュータグラフィックスのようです。(昨日の日記に出ている写真です)だから、私が美しいと思ったあの手描きの絵の表紙とは明らかに違います。でも、中の挿絵は私の記憶にあるものと同じでした。
たいへん有名な本ですので、図書館などには昔のままの「気ちがい通り」が出てくる版が残っていると思います。読み比べるのもいいかもしれません。
追記
もっと書きたくなったので、追記になりますが書いちゃいますね。この「霧のむこうのふしぎな町」に出てくる「気ちがい通り(現・めちゃくちゃ通り)」には、風変わりなひとしか住んでいません。それぞれとても個性的で、主人公リナもみんなのことが大好きになります。ストーリーのなかに出てくる言葉の中に、「欠点のない人間ほどつまらねえものもねえんでさ」、とあるように、ひとりひとりが愛情をこめて描かれ、気ちがいという言葉さえ良い意味で使われています。だから、わたしにとってこの人たちは、決して「めちゃくちゃ」というわけではないんです。普通の人とは全然「違う」けれど、それでいいんだ、と思わせてくれる素敵なお話です。
--> 言葉は変わる:「お疲れさま」と「ご苦労さま」の違いに続く