December 15, 2005

アンテ・ゴトヴィナはなぜクロアチアでは英雄なのか?(2)



戦争犯罪の容疑でハーグに拘束されているアンテ・ゴトヴィナ元将軍は、1995年クロアチアの嵐作戦などで活躍した元軍人です。セルビア側や国連側からみたら戦争犯罪ということですが、逆にクロアチア人からみれば、これは祖国を救った大事件で賞賛に値するもののようです。なぜでしょうか?

クライナ・セルビア人共和国

1991年、クロアチア領内のクライナ地方にセルビア系の国「クライナ・セルビア人共和国」が出来てしまい、それが1995年まで続いていました。クロアチア軍は1995年8月、クライナ・セルビア人共和国の首都であったクニン(Knin)を攻撃し、わずか4日間というスピードでクニンを制圧(嵐作戦)。このときに約150人のセルビア人が死亡し、ゴトヴィナ元将軍は現在ハーグで殺人罪に問われています。しかし、クロアチア人からみれば、短期間で犠牲を最小限にとどめることができ、大成功の戦いでした。それまではセルビア軍の力のほうが強く、5年間も奪回することが出来なかった土地を、わずか4日間で制圧できたのですから、奇跡的ともいえるかもしれません。そしてその5年のあいだに、数多くのクロアチア人の村々がセルビア軍によって皆殺しになったり焼き払われたりしていました。

また、ゴトヴィナ元将軍は、この嵐作戦のときに約15万人(20万という説あり)のセルビア人をクライナ地方から追い出した責任も問われていますが、これまたクロアチア側からみれば、「祖国を守るために必要不可欠な手段だった。そうする以外には国を守ることが出来なかった。」ということになります。

下の地図をご覧になってください。クライナ・セルビア人共和国はこんなに大きく(赤い部分)、クロアチア人にとってもセルビア人にとっても軍事ルートの要で、ここを失う側は非常に不利になることが分かりきっていました。


1)もともとクロアチア領であったということ、2)クロアチアはクライナ・セルビア人共和国を承認していなかったということ、3)これ以上セルビア人に攻撃されないようにするためには絶対にこの土地を失うわけにはいかなかったということ、以上の理由などからクロアチアは嵐作戦を実行し、結果的に1995年クライナ・セルビア人共和国は消滅することになりました。

「ここまで母国に貢献してくれた英雄をハーグに引き渡すなんてクロアチア政府はひどい」、という抗議の声もクロアチア人から多く聞かれます。また、クロアチアのメディア(ヴェチェルニ・リスト紙など)は、ゴトヴィナ元将軍は自分が逮捕されることをある程度予測していたのかもしれない、身を犠牲にしてクロアチアのEU加盟への道を開いたのかもしれない、という見方をしています。(EU加盟の前提条件として、ゴトヴィナ元将軍の逮捕が提示されていたので。)

なぜ変装もせずにカナリア諸島に戻って来たのか?

逮捕されたとき、ゴトヴィナ将軍はスペインのカナリア諸島のリゾートホテルで友人と夕食をとっているところでした。国際刑事警察機構(インターポール)に顔写真付きで世界に氏名手配されていたにもかかわらず、変装も全然していなくて、無抵抗。まるで最後の晩餐となることがわかっていたかのよう。

カナリア諸島というのは、1980年代にゴトヴィナ元将軍が戦争で負傷した時に療養していた場所で、この地の愛人にスペイン語を教わったそうです。これは彼の支援者が出版したアンテ・ゴトヴィナの伝記にまで書かれていたことですから、「カナリア諸島にいるかも」というのは本を読めば簡単に思いつきそうなものです。これまでは世界各地を転々と逃げ、タヒチ、アルゼンチン、中国、チリ、ロシア、チェコ、モーリシャス諸島などに行っていたことが、彼の偽名パスポートの記録から分かっています。

そんな遠くまで逃げていたのに、最後はあきらめたかのようにカナリア諸島に戻ってきてあっけなく逮捕。逮捕されたかったのかな、と私も思ってしまいます。

最後に、夕食中のゴトヴィナ逮捕の瞬間の写真8枚。
Uhićenje generala Gotovine (ヴェチェルニ・リスト紙)(追記:リンク切れです)

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